アラスカにはエスキモー・アリュート言語を話す民族と、所謂インディアンと呼ばれる民族を合わせると、19の先住民が暮している。すなわち、19種類の異なる言語が存在しているということでもある(方言は除く)。アラスカという限られた地域にこれだけ多くの異なる民族が暮らすのは、アラスカはユーラシア大陸からモンゴロイドが移動してきた際の玄関口だった証でもあると言われている。 しかし現在、アメリカの同化政策によって英語が主流となり、いずれの言語も存命が危ぶまれている。なかでも人口20人たらずのエヤック(Eyak)というインディアンの言葉を話せた最後の人物、マリー・スミス・ジョーンズ(Marie Smith Jones 写真の女性。私が90年代に撮影した)が2008年に亡くなったことで、アラスカの有史において(すなわち1741年ベーリングによってアラスカが『発見』された以降から現在に至る歴史において)最初に消滅したアラスカ先住民の言語となった。
十数年前、私はアラスカのフェアバンクスという町の学生だったが、言語学の授業でエヤックを含めたアラスカ先住民の言語が置かれている現状を知った。その時の教授がマイケル・クラウス博士(Michael E. Krauss)という当時アラスカ先住民言語研究所の所長であり、言語学の分野においても非常に重要な人物だったが、博士はエヤック語のスペシャリストでもあった。彼とマリー・スミス、そしてマリーの姉である故アンナ・ネルソン・ハリー(Anna Nelson Harry)らの努力によって、エヤック語が消えるギリギリの段階で言葉を記録することができた。言葉とは本来、学校で教わって身に付くようなものではなく、親がその言葉で子供を育てることによってはじめて生きた形で受け繋がれていくものだが、その時エヤック語の現状はもはや風前の灯火となっていた。しかし、ヘブライ語がそうであったように、記録をとっておくことで将来再び先住民の言葉が復活するかもしれないという希望を抱いている言語学者がいることは、私にとって驚異的な事実であった。
私は何度かマリーに会って様々な話を聞いたことがあったが(会話は英語)、自分が最後の語り部であることを彼女は非常に重く、悲しく受け止めていた。別れ際にエヤック語で物語を一つ聞かせてもらったが、それは非常に不思議な体験で、まるで時間が止まって逆流しはじめたような感覚に陥ったことを鮮明に覚えている。エスキモーやインディアンの言葉を聞くと、まるで風の音や鳥の鳴き声のような自然界の一部であるように感じるが、それは人間が持つ言葉の美しさを感じる一面でもある。
エヤックの領土は、90年代はじめにエクソンのタンカー座礁による原油流出事故の現場となったプリンス・ウイリアム湾の東に位置しており、周囲はアルーティック、アトナ・インディアン、クリンギット・インディアンといった大きな勢力に取り囲まれている。しかし不思議なことは、地理的にそれだけの異民族に取り囲まれているのに、エヤック語はそれらの言語の影響をあまり受けておらず、むしろ遥か南のアメリカ本土に暮すナバホ・インディアンの言語に近い。長い年月のあいだエヤック語が、周囲の民族の影響を受けずにどうして存続してきたのか、これは現在の言語学者が抱える大きな謎となっている。
ついでだが、アラスカ先住民言語におけるもうひとつの謎は、ハイダとツィムシアン・インディアンの言語(ともにトーテムポールで有名な民族)。この二つの言語は他言語から完全に孤立しており、いったいどこから来た民族であり言語であるのかまったくの謎とされている(ハイダに関してはアサバスカン諸言語、エヤック語、クリンギット語と繋がっていると推測する学者もいるようだが)。
エスキモーの言葉もふくめ、北米先住民の多くの言語はある年齢以上の世代でないと話せなくなってきている。その世代が消えれば、それとともに彼らの言語も消えることになる。言語学では、ひとつの言葉は約1000年経つと相互理解できないほどに自然と変化すると言われているが、人為的に消そうと思えば半世紀ほどの徹底的な沈黙を保てば、驚くほど簡単にできてしまうのだ。