まだ彼女が子供のころ、人々は流木などを組んだ骨組みを芝土で被った昔ながらの家に暮らしていた。家の入り口から居間までは、狭く暗い通路でつながっていた。そこはイキチンガークの隠れ家でもあったらしい。
あるとき、寒い土の家の中で焚く炭が切れてしまい、家の者がその事を嘆くと、「ほら、ここに炭があるよ」と言って、暗い通路から炭が投げてよこされた。またあるときに、家の者が「ヤカンがないな」と言うと「ほら、ヤカンだよ」と言って暗闇からヤカンが投げてよこされたという。いずれもイキチンガークの仕業だったらしい。
彼女にイキチンガークを見たことがあるのかと聞くと、彼女は首を横に振った。「でもその昔、たくさんの人々がイキチンガークを見ていたのよ」。そう言う彼女の目は真剣そのもので、冗談を装った気配など一切感じられなかった。
イキチンガークの話は他のユピック・エスキモーの村でも聞いたことがあった。トゥヌナックと言う村では、ツンドラのうえでカヤックをこぐイキチンガークを幼い頃に目撃したというマーサという名の老婆に出会った。
それは青いパドルを持っていて、カヤックはアザラシの皮で作られていたことを、彼女ははっきりと覚えていた。イキチンガークがパドルを一漕ぎすると、カヤックがスッとツンドラの上を進み、もう一漕ぎすると、もう少し長い距離をスーッと進んだという。しかし、イキチンガークが乗ったカヤックがツンドラに流れる小川に差し掛かったとき、一瞬にしてその姿は消えてしまったらしい。
彼らの言い伝えによると、その昔、ユピックとイキチンガークは、ともに暮らしていたのだが、あるとき人間の飼い犬がイキチンガークの子供を食い殺してしまい、激怒した親のイキチンガークは小さい身体にも関わらず、子供を殺した犬を引き裂いてしまった。それ以来、イキチンガークは人々の前から姿を消したのだそうだ。
「その昔、私たちはイキチンガークの存在を信じていた。だから彼らの姿を見ることができたけど、もうそれを信じる人はいなくなってきている」。マーサは最後にこう語った。
※ 写真はマーサ。1995年アラスカのネルソン島 Tununak村にて撮影。
※ ユピックに伝わる半人半獣の面もircenrraqと呼ばれる。