Oct 1, 2009

プリントを焼くということ


自分で制作しているプラチナプリントは、数種類の薬品を調合して紙に塗布し、印画紙を作る段階からはじめるので、非常に手間が掛かる。しかし、そういうことは別として、プリンター自身のモノクロームを見る眼がしっかりとしていないと良いプリントが作れないことは、銀塩のモノクロプリンティングと同じだと思う。アンセル・アダムスは、「ネガが楽譜で、プリント制作が演奏だ」というようなことを言ったと思う。ピアニストだったアダムスらしい言葉だが、私はもう少しそこに付け加えたいことがある。プリントは、自分自身に向き合う行為でもあるということだ。

以前、写真展を開催したときにギャラリー側に販売用のプリントを納めるため、何点かプリントを制作しなければならなかった(私の場合、基本的に一点のネガからマスタープリント一枚しか焼いていないので、注文などが入ったときにプリントを制作する)。ところが、このときのプリント制作が非常に苦痛で、たった一枚焼くと、まるで身体が腑抜けのようになってしまい、その日は何もする気がなくなってしまったのだ。必要点数のプリントを終えるまで、苦行のような日々が続いた。最初は単に体調が悪くて疲労がたまっているのだろうと思っていた。しかし、かなり後になってからわかってきたのだが、どうやらその時、取り組んでいたネガに自分自身のエネルギーを吸収されてしまっていたのだと思う。こう書くと、オカルトっぽく聞こえるかもしれないが、あのプリント後の倦怠感は、そう言い表すしか表現のしようがない。何か強力な磁力を持った物体に、何もかも吸い取られたような感覚だ。

考えてみると、「プリントして腑抜け状態」を経験する以前は、プリント制作はいつも撮影から帰ってきた直後だった・・・。極北への撮影行はいつも単独であり、危険や様々なリスクがともない緊張感に満ちている。そのような状況下で、8x10インチの大型カメラで一枚一枚撮影する。だからこそ、それぞれのネガには撮影時の私自身の念や、ほとんど祈りのような気持ちが入り込んでいると思う。

撮影時には大きなプレッシャーが掛かるが、その反動で撮影後は突き抜けんばかりの解放感と充実感で心身ともに満たされる。プリント制作するときは、いつもそのような時だった。また、プリントをする際に取り組むネガのイメージをしっかりと持つためには、撮影時に五感で感じたすべての感覚(風の音や大気の冷たさ、太陽のぬくもり、匂いなど)を一斉によみがえらせ、それをプリントにフィードバックしなければならない。それは、腹をくくって旅立った自分自身と対峙する瞬間でもあり(本当にそういう感覚がある)、よほど気持ちが充実していないと、撮影時の自分自身の気迫に負けてしまうのだ。

ギャラリーにプリントを焼いていたとき、確か前回の撮影からは時間が経った時期だったように思う。また、現在は相当な枚数のネガがたまった状態なので、時間さえあればプリントを焼いているが、いつも気持ちを高めて感覚を開いていないと良いプリントを作れないし、相変わらずエネルギーを吸い取られてしまう。