Oct 15, 2009

機材を越える

写真が他の表現媒体と決定的に異なるのは、現場に立たなければ作品を作ることができないことだろう。想像力だけが豊かでも作品は生まれない。良い被写体に恵まれ、最良の光線状態に恵まれなければ良い写真を写せない。「芸術」という言葉はどこか胡散臭さを感じて好きではないが、あえてその言葉を使わせてもらえば、写真は出会いの芸術だと思う。風景や人間、動物など、様々な被写体や瞬間との良い出会いができるかどうか、写真はすべてそこに懸かっている。出会いに対する切なる祈りが作品に力を与えてくれる。

時折、カメラマンがまとめた作品集などを「ナニガシ氏がファインダーを通して見た世界…」などという言い回しで見出しをつけたり、カメラマン自らも「私がファインダーを通して見た〜の世界」という言い方をする人たちがいるが、率直に言って、ファンダーを通してしか世界を見ることができない写真家は失格であると思う。カメラのファインダーといった機材を超えることができていないのは、世界に対峙しながらも写真という偏狭な枠組みにとらわれしまっている。

では、どうしたら機材を超えることができるか?
自分が生まれ持った二つの目玉で「見る」という行為に徹するのである(一眼レフでの手持ちは、とかくファインダーのなかで構図を決めがちになるので、どうしてもファインダーのなかで見ながら考えてしまう)。更に、視覚に加え、人間が備えている感覚器官を総動員する。嗅覚や聴覚、肌からの感覚などなど。 写真のプリントのサイズなどたかが知れたものである。全器官を使うことは、限られたプリントサイズの中に、いかに無限の空間の広がりや世界の深さを感じさせるかに密接に関わってくる。主要な被写体よりも、むしろその後ろに写っている何気ない背景、地平線や空が重要なのである。これは、広重の浮世絵や、日本画を見ると明らかである。日本画や浮世絵は、遠近法を駆使する西洋画と違って平面的だと思われている。しかし、そこには放射方向だけでなく、画面の深い奥行きがある。空間処理はもちろんのこと、背景の処理の仕方、光やグラデーションの扱い方に秘密があると思う。そこに描かれている背景には、心理的に引き込む強烈な作用がある。写真でファインダーをのぞくのは、ピント合わせと画面の四隅をちょいと見て構図の確認をするだけなのである。

プリントをする際には、ネガに写り込んでいる物質の根源的な部分に着目する。全ての物質は異なる反射率があるし、表面の質感や感触も温度も異なる。それを考えることによって立体感や空気感、臨場感までも印画紙上に表現できることにつながってくる。撮影のときに全身の感覚を総動員して感じた記憶を、このときに一斉に蘇らせ、プリントをする。だからプリントをしているときは、いわばトランス状態になっている。