1979年から最近まで PGI で展示してきたさまざまな作家の色々なプリントが展示されてあり楽しめます。5月24日まで。
Not Necessarily Platinum
〜極北の文化や自然、ライフワークのプラチナプリント制作ノート〜
May 20, 2019
Mar 15, 2018
忘れられてなどいない本たち
Forgotten Books?? エスキモーや極地探検にかんした古い文献をネット上で探していたら、こんなサイトを見つけた。ここから出版された印刷版は amazon.com などで注文できるが、直接サイトで登録すればなんと1ヶ月たった $8.99 でPDF版をダウンロードし放題だそうだ。ここには 945,609冊分にもおよぶ様々な分野の文献がある(全部読むとしたら、人生何回分が必要だろうか?)。
「歴史とは何年に、誰が、何をしたか、ということを学ぶのではなく、そのとき人々が何を感じ、何を思ったのかを考えることだ」と思想家の西尾幹二氏は言った。人間社会や文化において、まだまだ多くの謎や未知なる領域が残されていた時代に出版された本を読んでいると、まさに氏の言わんとすることが響いてくる。
「歴史とは何年に、誰が、何をしたか、ということを学ぶのではなく、そのとき人々が何を感じ、何を思ったのかを考えることだ」と思想家の西尾幹二氏は言った。人間社会や文化において、まだまだ多くの謎や未知なる領域が残されていた時代に出版された本を読んでいると、まさに氏の言わんとすることが響いてくる。
Jul 11, 2017
Birds in the Hand 2017.7.13 (Thu) - 9.1 (Fri) at PGI in Tokyo
Birds in the Hand 2017.7.13 (Thu) - 9.1 (Fri) at PGI in Tokyo
Grus canadensis: sandhill crane. カナダヅル
PGI にて7月13日から9月1日まで。
Jan 17, 2017
「クマの子殺し」から思ったこと・・
先日、あるテレビ番組で日本のツキノワグマを追っている動物カメラマンがとらえた貴重な生態の映像が紹介されていた。子グマを育てるメスのクマの姿が特に印象的だったが、そのなかで発情期に入ったオスクマによる子殺しの場面があった。ナレーションでは「ツキノワグマでは初めて確認された行動」とあり、今まで未確認だったことが意外で驚いた。何故ならば、ヒグマやシロクマではすでに知られた行動であったからだ。だからツキノワグマでも多分あり得る生態と思っていたのだが、やはりその場面を確認するには相当な努力が必要なのだろう。山岳地帯の多い日本の地形を考えれば、その観察の困難さもうかがい知れる。
話が少しズレるが、そこでふと思い出したのが、何年も前に日本のある報道写真雑誌で、一頭のシロクマが若い個体のシロクマの頭部を口にくわえたかなりエグくて衝撃的なカラー写真が掲載されていたことだった。海外のカメラマンがとらえた写真だったが、なんとその写真のキャプションの内容は「温暖化現象により氷が減少してアザラシなどを捕まえることができなくなったために、シロクマが共食いを始めた・・・」というものだったのだ。
人が何かを表現すると少なからずバイアスというものがかかってしまうものだが、温暖化現象に強引に結びつけてよりセンセーショナルな ”事件” に作り上げようとするこのカメラマン(あるいは編集者)の明け透けな意図と短絡さに呆れかえってしまったものだった。もしあらかじめシロクマの生態を少しでも調べていたら、こんな恣意的なキャプションは書けなかったのではないだろうか。ほんのわずかの言葉の誤謬が、その写真の価値を台無しにしてしまう恐ろしさも感じたものだった。
自然観察では、仮説を立てることと憶測を述べることは別物なのだ。「不確かなこと」をさも事実のことのように書くことは危険極まりない。上記の記事を読んだ読者のなかには「シロクマは環境の変化により共食いをするようになった = 本来は共食いはしない動物」と捉える者が少なからずいたであろう。
あくまで「根拠がないもの」や「不確かなこと」はその断りなく書いてはならないのだ。このことは自然科学にかぎらず、社会問題や社会科学に関連した出来事を伝えることにも言えることではないだろうか。最近ネット上で話題となっている大手メディアによる捏造記事とも繋がっているだろう。そういう意味においても、一人一人の受け手が情報の内容をよくよく吟味することが大切なのだと思う。
話が少しズレるが、そこでふと思い出したのが、何年も前に日本のある報道写真雑誌で、一頭のシロクマが若い個体のシロクマの頭部を口にくわえたかなりエグくて衝撃的なカラー写真が掲載されていたことだった。海外のカメラマンがとらえた写真だったが、なんとその写真のキャプションの内容は「温暖化現象により氷が減少してアザラシなどを捕まえることができなくなったために、シロクマが共食いを始めた・・・」というものだったのだ。
人が何かを表現すると少なからずバイアスというものがかかってしまうものだが、温暖化現象に強引に結びつけてよりセンセーショナルな ”事件” に作り上げようとするこのカメラマン(あるいは編集者)の明け透けな意図と短絡さに呆れかえってしまったものだった。もしあらかじめシロクマの生態を少しでも調べていたら、こんな恣意的なキャプションは書けなかったのではないだろうか。ほんのわずかの言葉の誤謬が、その写真の価値を台無しにしてしまう恐ろしさも感じたものだった。
自然観察では、仮説を立てることと憶測を述べることは別物なのだ。「不確かなこと」をさも事実のことのように書くことは危険極まりない。上記の記事を読んだ読者のなかには「シロクマは環境の変化により共食いをするようになった = 本来は共食いはしない動物」と捉える者が少なからずいたであろう。
あくまで「根拠がないもの」や「不確かなこと」はその断りなく書いてはならないのだ。このことは自然科学にかぎらず、社会問題や社会科学に関連した出来事を伝えることにも言えることではないだろうか。最近ネット上で話題となっている大手メディアによる捏造記事とも繋がっているだろう。そういう意味においても、一人一人の受け手が情報の内容をよくよく吟味することが大切なのだと思う。
Aug 31, 2016
八月の終わり
いつのまにか八月も終わりに近づき、秋の足音が聞こえてくる季節となった。
この時季になると、親友からの古い手紙に書き添えられていたヘッセの詩が思い起こされる。
この時季になると、親友からの古い手紙に書き添えられていたヘッセの詩が思い起こされる。
もう諦めていたのに、夏はもう一度力をとりもどした。
夏は、だんだん短くなる日に凝り固まったように輝く、
雲もなく焼きつく太陽を誇り顔に。
このように人の一生の努力の終わりに、失望してもう引っ込んでしまってから、
もう一度いきなり大波に身をまかせ、一生の残りを賭して見ることがあろう。
はかない恋に身をこがすにせよ、遅まきの仕事にとりかかるにせよ、
彼の行いと欲望の中に、終わりについての
秋のように澄んだ深い悟りがひびく。
Ende August
Aug 2, 2016
プラチナ・パラジウムプリントを作る・・ということ。
プラチナ・パラジウムプリントは感光液を紙に塗布して、印画紙を自分で作るところから始めなければならない。つまり既製品の印画紙を使うわけではないので、まずは基準となるもの(自分の中心点)を見出して、安定した結果を長期的に出していかなければならない。とても地味なことだが、これができていないと長期的なテーマで撮影に取り組んだりするとプリント制作時期によってバラバラな仕上がりになってしまい、全体として見たときにまとまりがつかなくなってくる。「職人技」という言葉があるが、それはいかに作品のバラつきをなくするかの技術のようにさえ思えてくる。本当の表現は、そのことが出来てからの話なのではないだろうか?「偶然性に賭け続けるには、あまりに人間(作家)は弱い存在」だと思うのである。
プラチナ・パラジウムプリントで使う支持体(紙)は仕上がりに影響するたいせつな要因のひとつで、生産ロットによるばらつきや不安定な供給で、これまで20数年のあいだに何度も泣かされてきた。昨年末以来、数種類の新しい紙がでてきたので試しているが、なかなか良い結果が出てきている。しかし、嘗てあった「PLATINOTYPE」という紙には及ばないかもしれない。写真に写っているものがひとつひとつ立ち上がってくるようなあの立体感はあの紙でしか表現できなく、他の紙と比べると別次元のものだったように感じる。ただし、雁皮紙はまた別の次元で素晴らしい結果を出せる紙だと思う。紙の大きさやコストを別とすれば・・。
プラチナプリントを始めたばかりの頃は毎回毎回、「もうこれ以上できないようなプリントを作ろう」と意気込んでいたが、ここまで書いたとおり、山あり谷ありのプラチナプリント制作。おまけに、自分自身のモノクローム写真を見る眼や価値判断だって常に変化していくものだ。
結局は、作る側にとっては「その時々に最善を尽くして作品制作に取り組むしかない」という認識と、見る側には「人間はつねにコスモスとカオスのあいだを揺れ動くもの」というおおらかな認識が必要、ということでもある・・と思う。
プラチナ・パラジウムプリントで使う支持体(紙)は仕上がりに影響するたいせつな要因のひとつで、生産ロットによるばらつきや不安定な供給で、これまで20数年のあいだに何度も泣かされてきた。昨年末以来、数種類の新しい紙がでてきたので試しているが、なかなか良い結果が出てきている。しかし、嘗てあった「PLATINOTYPE」という紙には及ばないかもしれない。写真に写っているものがひとつひとつ立ち上がってくるようなあの立体感はあの紙でしか表現できなく、他の紙と比べると別次元のものだったように感じる。ただし、雁皮紙はまた別の次元で素晴らしい結果を出せる紙だと思う。紙の大きさやコストを別とすれば・・。
プラチナプリントを始めたばかりの頃は毎回毎回、「もうこれ以上できないようなプリントを作ろう」と意気込んでいたが、ここまで書いたとおり、山あり谷ありのプラチナプリント制作。おまけに、自分自身のモノクローム写真を見る眼や価値判断だって常に変化していくものだ。
結局は、作る側にとっては「その時々に最善を尽くして作品制作に取り組むしかない」という認識と、見る側には「人間はつねにコスモスとカオスのあいだを揺れ動くもの」というおおらかな認識が必要、ということでもある・・と思う。
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