Aug 31, 2016

八月の終わり

いつのまにか八月も終わりに近づき、秋の足音が聞こえてくる季節となった。

この時季になると、親友からの古い手紙に書き添えられていたヘッセの詩が思い起こされる。




もう諦めていたのに、夏はもう一度力をとりもどした。
夏は、だんだん短くなる日に凝り固まったように輝く、
雲もなく焼きつく太陽を誇り顔に。
このように人の一生の努力の終わりに、失望してもう引っ込んでしまってから、
もう一度いきなり大波に身をまかせ、一生の残りを賭して見ることがあろう。
はかない恋に身をこがすにせよ、遅まきの仕事にとりかかるにせよ、
彼の行いと欲望の中に、終わりについての
秋のように澄んだ深い悟りがひびく。

                                                                                                                      Ende August

Aug 2, 2016

プラチナ・パラジウムプリントを作る・・ということ。

プラチナ・パラジウムプリントは感光液を紙に塗布して、印画紙を自分で作るところから始めなければならない。つまり既製品の印画紙を使うわけではないので、まずは基準となるもの(自分の中心点)を見出して、安定した結果を長期的に出していかなければならない。とても地味なことだが、これができていないと長期的なテーマで撮影に取り組んだりするとプリント制作時期によってバラバラな仕上がりになってしまい、全体として見たときにまとまりがつかなくなってくる。「職人技」という言葉があるが、それはいかに作品のバラつきをなくするかの技術のようにさえ思えてくる。本当の表現は、そのことが出来てからの話なのではないだろうか?「偶然性に賭け続けるには、あまりに人間(作家)は弱い存在」だと思うのである。

プラチナ・パラジウムプリントで使う支持体(紙)は仕上がりに影響するたいせつな要因のひとつで、生産ロットによるばらつきや不安定な供給で、これまで20数年のあいだに何度も泣かされてきた。昨年末以来、数種類の新しい紙がでてきたので試しているが、なかなか良い結果が出てきている。しかし、嘗てあった「PLATINOTYPE」という紙には及ばないかもしれない。写真に写っているものがひとつひとつ立ち上がってくるようなあの立体感はあの紙でしか表現できなく、他の紙と比べると別次元のものだったように感じる。ただし、雁皮紙はまた別の次元で素晴らしい結果を出せる紙だと思う。紙の大きさやコストを別とすれば・・。

プラチナプリントを始めたばかりの頃は毎回毎回、「もうこれ以上できないようなプリントを作ろう」と意気込んでいたが、ここまで書いたとおり、山あり谷ありのプラチナプリント制作。おまけに、自分自身のモノクローム写真を見る眼や価値判断だって常に変化していくものだ。

結局は、作る側にとっては「その時々に最善を尽くして作品制作に取り組むしかない」という認識と、見る側には「人間はつねにコスモスとカオスのあいだを揺れ動くもの」というおおらかな認識が必要、ということでもある・・と思う。