Jul 6, 2015

アラスカと日本の夏休み

アラスカでの学生時代に世話になっていた教授とあるSNSでつながっているのだが、夏休みに入りアラスカ州からオレゴン州まで車で旅をするらしく、「三週間ではなく、三ヶ月あったらなぁ」なんて、大抵の日本人が見たら「なんて贅沢な!」と嫉妬するようなことを書き込んでいた。

日本以外のアジア圏や他地域の夏季休暇の事情は知らないので、自分の経験で知っている範疇でしか書かないが、ヨーロッパでも夏場は数週間に渡ってヴァケーションをとる。グリーンランドに撮影に行く場合はコペンハーゲン経由なのだが、旅程のタイミングをあやまると向こうの夏季休暇中にはまってしまい、宿や乗り物の手配にけっこう苦労したりする。コペンハーゲンだけでなく、グリーンランドのような『僻地』さえも観光客でごった返すのだ(この期間、やはり2〜3週間はある)。

日本でどれほどの勤め人が三週間の休暇をとれるのか知らないが、ほとんどの場合、このアラスカ教授氏の 1/3 ぐらいではないだろうか(当然アメリカでも職種や人によって異なるだろうが)。夏休みの短さが「日本人は勤勉だ」と言われてきたことに多少でも関係があるかもしれないが、そもそも、日本人はもとから<勤勉>な民族だったのだろうか?

古典落語のまくらで「江戸の頃の職人たちは半日くらいで仕事を切り上げて、あとは好きなことをしていたようです・・」というのを聞いたことがある。酒なども、一度にたくさん買ってしまうとあるだけ飲んでしまって仕事にならなくなるから、奥さんや子供が父親のために一回に飲む分量だけを量り売りしてもらっていたとか・・(これは昭和期に入ってもそういうことがあったと知り合いから聞いたことがある)。いずれにせよ、過去へ遡るほど日本もおおらかな時代であったことは間違いないようだ。

ところで、「ドロモロジー(dromologie)」という言葉がある。これはギリシア語の「ドロモス:前進、競争、逃走」と「ロゴス:原理、体制」を合わせた造語らしい。つまり、<人間を先へ先へと走らせ、追い立てる強制力>という意味がある(M.ハイデガーの言った<ゲシュテル>もこれに近い認識だろうか)。産業革命以降、工場の稼働率や費用対効果を上げることから、機械の始動・稼働時間、停止時間に合わせて労働時間が逆規定され出したという説、言い換えれば、人間自身が機械にあやつられる事態がこの時からすでに始まっていたという考え方もドロモロジーは含んでいる(日本の電車などの正確無比な発着時間には、ドロモロジーが潜んでいると考える人もいる)。

この造語はポール・ヴィリリオというフランスの思想家によるものなので、この<不可視の強制力>に対する問題意識は、産業革命が起こったヨーロッパご当地で生まれたわけだ。以前から感じていたことだが、思想・哲学の系譜や科学技術の進歩に対して、その発祥の地であるヨーロッパではつねにそのことに対して内省する力学がはたらく伝統があるように思う。科学技術やそれを支える哲学や思想さえも問うドロモロジーという問題提起も、その一例だと思う。こういった思考・哲学や科学技術に対する反動した力学が起きる土壌がヨーロッパにあるのは、デカルトやパスカルなどをはじめとする多くの哲学者が同時に自然科学者でもあることに理由があると思う。理論・技術とそれを扱う思想は、切っても切り離せない関係なのではないだろうか。

翻って日本はどうだろうか?哲学・思想にせよ科学技術にせよ、幕末から明治にはいって近代化の目的(というか最初は西欧諸国の植民地支配下にならぬための先手としての近代化ではあったのだろうが)のために表面的な部分だけをどんどん輸入して普及・発展させることだけを優先して、そのことを問うたりする根底の思想がおろそかになってきた面はかなりあったのではないか(福沢諭吉などはこの問題を深く考えて、当時すでに啓発していたようだが)。

こんな問題を今更ここで書かなくてもどこかで既になされてきたわけだが、毎日が忙しなく流れていくことに身をまかせ、何も考えずにひたむきに生きる方が、生や自己を問うたり考えたりするより、よっぽど楽なこともある。しかし『アラスカ教授氏の夏休みの短さに対するちいさな不満』に触れて、実は教授氏もそれなりにアラスカ版ドロモロジーの支配下にあるのか〜とか、日本人の夏休みの短さは「日本人が勤勉だから」というよりも、「日本人は、<不可視の強制力>に対して従順だから」と表現した方が良いのではないか、だとしたら「なぜ従順なのか?おのれの思想を問う・内省する姿勢が、とりわけ日本人には欠落してきたからか?」という疑問も生じてくるなあ・・などと考えてしまうのである。

「アーティストなど、社会の輪からずれ落ちたヤツが。大きなお世話だ!」と言われたらおしまいなのだが・・(自分がアーティストなどと思ってはいないんだけど)。