May 29, 2014

永遠の瞬間


「永遠とは、終わりも始まりもない時間の継続のことではない。永遠の今のことである。だから、私たちにとっての今は、アダムにとっての今でもあったものと、同一なのである。言いかえれば、今現在と当時とのあいだに差異はないのだ」

                              Arthur Schopenhauer

May 16, 2014

「芸術」という言葉がはらむ胡散臭さ

これまで「芸術」という言葉は、極力つかうことを避けてきたように思う。どこか「胡散臭さ」とか「如何わしさ」を感じて、「表現」とか「創作」という言葉を代わりに使って切り抜けてきた。「芸術」とはなにか自分なりに考えたこともあったが、勝手に自分で新たな定義を作り出して乱用するわけにもいかない。言葉の意味の問題なのだから、素直に語源をさかのぼって考えるしかなかろう・・・(「藝術」という語は、明治に西周によって「liberal arts」に対応して造語され、その後「art」と同義語として扱われるに至ったそうなので、まずは「art」という語を前提として考えてみる)。

「アート」とはラテン語の「ars(アルス)」が語源で、「技術」「才能」「資格」「自然の秩序」という意味で、さらにその語源はギリシャ語の「techne(テクネー)」にあるという。「テクネー」とは、当然ながら「テクニック、テクノロジー」の語源。「テクネー」は、何かを制作するための技術であるわけだが、その「制作」は古代ギリシャでは「ポイエーシス」と言われていたらしい。

「ポイエーシス」には、「制作、詩作」という意味があるそうだが、その制作行為とは、「自然を露開させること」と認識されていたらしい。どういう意味だろうか?ミロのビーナスとかニケ像などの古代ギリシャの彫像。その荘厳な姿は、彫刻家の技術(テクネー)によって、もともと大理石のなかに埋もれていたミロのビーナスなりニケの姿を余分な大理石を削り落とし、陽光のもとに導きだしたと考えられていたそうだ(そういう意味では、日本の仏師が木の塊から仏像などを彫りだす行為とも同じだと思う)。

隠れて未発見の状態であるものを、「テクネー(技術)」を持ってあらわに開示するという行為・・・そのことを考えれば、おのずと「芸術」という言葉が持つ本来の意味がわかってもこよう。

現代になって、「技術」というものが、利便性とか効率性、合理化のための便利な道具になってしまった面が多いにあることと、「芸術」が単なる自己表現になりさがったことは、通底しているように思えてならない。つまり、自然と密接にかかわり合った本来的な在り方から離れて、人為的、よりヒューマニズム的(人間中心主義的)になったのではないだろうか。この人間の理性への過信がもっとも顕著に表れているのが、いまのテクノロジー崇拝だとも考えられるのではないだろうか。

そう考えてみると、自分にとって「芸術」という言葉に対する抵抗感とは、「ヒューマニズム」に端を発しているように思われる。「ヒューマニズム」を臆面もなく振りかざす行為と、現在広く使われている「芸術」という言葉がはらむ如何わしさは、同じ嫌悪感をもって腹の底からわき上がってくる感じがするからだ。臆面もなく芸術家を主張したりヒューマニズムを主張したりすることができる人を、少なくとも自分は信用できない(「人間の命は地球よりも重い」などというのはまったく論外だと思う)。

ときおり、アート市場でびっくりするような値段で作品が売買されたりして話題になるが、自分が「芸術」という言葉に感じていた嫌悪感は、芸術作品がそのような投機目的や拝金主義者たちの対象であること以上にもっと深い部分に根っこがあるようだ。このことに関しては、もう少し自分の腹の底をさぐって何が潜んでいるのか確かめてみる必要がありそうだ。




May 15, 2014

言葉、世界・・・sila

「言葉で掛けた魔法を言葉で解くことはできない。だから音楽や絵画や写真が必要とされる」なんて言おうものなら、小説家あたりに目を吊り上げて怒られそうだし、「それは思考停止状態だ!」なんて糾弾されもしそうだ。

しかし、言葉を使ってしまうと、一向に知りえなく、そのまま一番肝心で大切なことを取りの逃がすことがある。何かの光景を目の当たりにして当惑したり、感動したり・・その気持ちをなんとか言葉にしたときには、もう本来受けた衝撃や感動したことから遠のいたりしている(そのために、小説家は行間からナニゴトかを立ち上がらせたり伝えたり努力するのだろう)。

このほんらい混沌とした世界を認識するために、人間は言葉を使う。これまで混沌に無数の区切り目を入れて「世界」を構築してきたし、この今も、しつづけている。「人間は言葉の生き物」といわれるのもその所以だが、ならば、区切り目を入れるごとに、区切り目と区切り目のはざま(混沌、闇)はさらに増えていくはずでもある。人間はそのことに恐れや不安を感じ、もうどうにも行き詰まってしまったときには、とうとうその言葉を「解体」したりもする。結局それは、「言葉」どころか「自分自身」を解体していることではないかとも思えるのだが、物事を知れば知るほど、混沌(謎)が深まってゆくという深遠さを物語っているかのようでもある(世界の謎が深まるというよりも、自分自身の謎が深まってゆくと言うべきか?M. ハイデッガーの言った、「存在は了解のうちにある」とか「現存在(人間)が存在するかぎりでのみ、存在はある」という言葉が思い起こされる)。

「世界」というものの認識の仕方自体、人間の言葉のうえに成り立っているともいえる・・ということは、言語が違ってしまえば、世界観も変わるということでもある。文化によって考え方や価値観が違うのも当然だろう。文化の「核」は言葉なのだから。

だとすれば、常に「速度」が求められる(強いられる)現代で、言語とか世界観というものはどのように変化しているのだろうか?テクノロジーというものは、蓄積された知識や技術が多くなればなるほど、その発展の度合いは一層加速してゆくというが、言語の変化の加速度もやはり増しているのだろうか?

はやり廃れが激しい今の世の中で、「ひとつの言語が消える」などということを日常的に考える人はあまりいないと思う(そんな余裕もないだろうが)。しかし、言語学的には、言葉というものは放っておいても、おおよそ1000年ぐらいで相互理解ができないくらいに自然と変化すると考えられている(同化政策のように、強制的にその言語の使用を禁止しない場合)。


以前出版した写真集「sila」(イヌイット語で「世界」の意)で、アリュート、ユピック、イヌイットの親子三世代の家族のポートレートを含め、三つの言語(西グリーンランド語(アリュート・エスキモー語族を代表して)、日本語、英語)で表記したのは、エスキモーの文化に対して敬意を表するのが第一義でもあるのだが、(たった半世紀の)同化政策の結果「今世紀中にほとんどの地域でイヌイット語を話せる世代が途絶える」という事実、この世から、ひとつの「世界」が消える、という思いにも根付いている。

Jan 1, 2014

「長野県出身の写真家たち」四谷ポートレートギャラリー


去年11月〜12月まで長野市で開催した「長野県出身の写真家たち」を、1月30日(木)〜2月5日(水)まで四谷ポートレートギャラリーにて開催します。私はカラー作品3点を出品します。