Apr 7, 2011

「解釈」と「理解」

だいぶ前のことだが、ある若手New Color 作家が個展を開催した際の雑誌のインタビューで、「自分の作品は、見る人それぞれが各々感じるように感じ取ってもらえればいい」ということを言っていた(この際『New Color』 とかどうでも良いが)。なんだかリベラルっぽくて耳障り良く聞こえるかもしれないが、とてもじゃないが自分にはこんな無責任なことは言えないと思った。

武満徹は「孤独な感情がふれあうところに、音楽が形をあらわす。音楽は決して個のものではなく、また、複数のものでもない。それは、人間の関係の中に在るものであり、奇妙ではあるが、個人がそれを所有することはできない」と言った。この言葉は長らく私の心の内にあり、ほんとうにこれがどういうことなのか、常々考えていた。

あくまで「生命」というものにまっこうから対峙して創作に打ち込んでいる限り、常に変化する対象に対峙しているのであり、そもそも自分自身も生命そのものなのだ。命あるものは死ぬまで変化、変容し続ける(肉体的にも精神的にも)。そう考えると、作品というものが自分の変化・成長の過程で生まれる分身とも思え、同時に愛おしさを感じる。でもその反面、変化の過程ではがれ落ちる単なる「垢」なのかもしれないと思うこともある。両者の共通点を現代風に言えば、DNA らしきものが含まれている点か?であればこそ、やはり自分の作品に対してどこかで「責任」というものを感じるし、他人にどう受け取ってもらっても良い、とはどうしても思えない。だからこそ、自分の撮影テーマに関するリサーチや裏付けというものは、徹底的にしなければならないと思っている。

ある「作品」に対して「解釈する」という言い方がされるが、そもそも「解釈する」ということが他人のために発せられるものならば、「理解する」ということは自分のためであると思う。私は撮影をとおして見る世界を自分なりに必死で理解しようとしているが、どうしても理解することができない。ましてや「解釈」するなんて領域には、とてもではないが到達できない。その意味で作品を発表するということは、何かの途上にある自分自身をさらけ出しているとしか言いようがないかもしれない。その姿をとおして、自分が惹かれる世界や「有り様」というものを訴えようとしているのだろうか。

考えてみれば、音楽でも文学でも媒体は違っても、私自身が惹かれる作品の根源には、その作品に滲み出ている作家の生き様にある。だからこそ、優れた作品には分野を超えて共鳴することができるのだと思う。