May 21, 2015

エトヴィン・フィッシャー







今は亡き知人から、エトヴィン・フィッシャー著の「音楽を愛する友へ」という文庫本をもらい、原野での撮影中、テントのなかで何度も読みかえしてきた。日本語訳の堅苦しい文体もあって少々とっつきにくい文章だが、音楽のことに限らず、日常の何気ない光景の描写にも繊細な人間性があらわれていると同時に、著者の洞察力の深さが感じられる良書だ。


バッハの平均律を最初に録音し、現代に<再発見>したのが、フィッシャーだそうだ。彼の演奏がもっとも真摯にバッハの音楽に向き合っているといまなお評されることがあるのは、信仰心から、神にささげる気持ちで作曲されたものを、演奏者の<独創性>を発露するための作品としてフィッシャーは受け取っていなかったからなのかもしれない。


自然写真の評論などでも、「打ち震えるような感動の気持ちを作品に表現しろ」というような、万人に理解可能な単純な論評で安易に総括する評論家がいるが、そんな人には例えば「自然に分け入ると、襟をただすような気持ちになる」という感覚は理解できないのかもしれない。<自己>が無化してしまうような事態が世界にあることを知らないのかもしれない。いや、もし知らないのならば当然のことだろう。それは根本的に<経験>するしかないからだ。出会った光景なり事象なりに内包される厳粛さに自分の波長が一致し、<感動する気持ち>をはるかに超えた<畏怖の念>を抱きある種の信仰心が芽生えるような事態に陥ることも、滅多にあることではないにせよ存在するのである。そんな稀有な世界の奥深さを探求し作品に表すことは困難ではあろうが、卑小な自己表現だけに埋没するよりもそのことに努めることの方が、芸術家にとってはより本来的な仕事のように思う(もはや現代では「だった」と過去形で言うべきなのだろうか)。それは<刺激>や<斬新さ>、<わかりやすさ>などではなく、世界やものごとの<深さ>を探求することだろうから、見る方にとってもそれなりの見る努力が強いられることではあろう(往々にして古典と呼ばれる作品にそういった側面が見られるように)。


「語りえぬものには沈黙しなければならない(L. Wittgenstein)」という言葉があるが、ものごとの深さの探求とは、「語りえぬもの」に通じる長い道のりなのかもしれない。それは、ただ<生きること>のなかに示され、語ることもできず、語るべきでもない(また、こうやって書くべきでもないのだろうが・・)。思えば、私自身がこれまでに魅了されたすべてのアーティストたちの作品から共通して感じられることは、強烈な彼らの<生き様>であった。そして、私自身はそこに一番の感動を覚えてきた。それはまさに、彼らの生に対する真摯な姿勢がありありと体現されているからだろう。そのような作品においてはまさに、「美とは人々を(真実に)おびき寄せるための餌でしかない(S. Celibidache)」のではないか。