Feb 2, 2010

Some mighty words by Najagneq, the Yupik shaman.


Excerpts from Across Arctic America: Narrative of the Fifth Thule Expedition. Conversation between Knud Rasmussen and Najagneq, the Yupik shaman from Nunivak Island, in Nome Alaska in 1924.

* R=Rasmussen. N=Najagneq

R. "What does man consist of?"

N. "Of the body; that which you see; the name, which is inherited from one dead; and then of something more, a mysterious power that we call yutir - to all that lives."

R. "What do you think of the way men live?"

N. "They live brokenly, mingling all things together; weakly, because they cannot do one thing at a time. A great hunter must not be a great lover of women. But no one can help it. Animals are as unfathomable in their nature; and it behooves us who live on them to act with care. But men bolster themselves up with amulets and become solitary in their lack of power. In any village there must be as many different amulets as possible. Uniformity divides the forces; equality makes for worthlessness."

R. "How did you learn all this?"

N. "I have searched in the darkness, being silent in the great lonely stillness of the dark. So I became an angakoq (shaman), through visions and dreams and encounters with flying spirits. In our forefathers' day, the angakoqs were solitary men; but now, they are all priests or doctors, weather prophets or conjurers producing game, or clever merchants, selling their skill for pay. The ancients devoted their lives to maintaining the balance of the universe; to great things, immense, unfathomable things"

R. "Do you believe in any of these powers yourself?"

N. "Yes; a power that we call Sila, which is not to be explained in simple words. A great spirit, supporting the world and the weather and all life on earth, a spirit so mighty that his utterance to mankind is not through common words, but by storm and snow and rain and the fury of the sea; all the forces of nature that men fear. But he has also another way of utterance, by sunlight, and calm of the sea, and little children innocently at play, themselves understanding nothing. Children hear a soft and gentle voice, almost like that of a woman. It comes to them in a mysterious way, but so gently that they are not afraid; they only hear that some danger threatens. And the children mention it as it were casually when they come home, and it is then the business of the angakoq to take such measures as shall guard against the peril. When all is well, Sila sends no message to mankind, but withdraws into his own endless nothingness, apart. So he remains as long as men do not abuse life, but act with reverence towards their daily food."
"No one has seen Sila; his place of being is a mystery, in that he is at once among us and unspeakably far away."

※ Picture from the official record of the Fifth Thule Expedition.

Jan 7, 2010

消えゆく言語


アラスカにはエスキモー・アリュート言語を話す民族と、所謂インディアンと呼ばれる民族を合わせると、19の先住民が暮している。すなわち、19種類の異なる言語が存在しているということでもある(方言は除く)。アラスカという限られた地域にこれだけ多くの異なる民族が暮らすのは、アラスカはユーラシア大陸からモンゴロイドが移動してきた際の玄関口だった証でもあると言われている。 しかし現在、アメリカの同化政策によって英語が主流となり、いずれの言語も存命が危ぶまれている。なかでも人口20人たらずのエヤック(Eyak)というインディアンの言葉を話せた最後の人物、マリー・スミス・ジョーンズ(Marie Smith Jones 写真の女性。私が90年代に撮影した)が2008年に亡くなったことで、アラスカの有史において(すなわち1741年ベーリングによってアラスカが『発見』された以降から現在に至る歴史において)最初に消滅したアラスカ先住民の言語となった。

十数年前、私はアラスカのフェアバンクスという町の学生だったが、言語学の授業でエヤックを含めたアラスカ先住民の言語が置かれている現状を知った。その時の教授がマイケル・クラウス博士(Michael E. Krauss)という当時アラスカ先住民言語研究所の所長であり、言語学の分野においても非常に重要な人物だったが、博士はエヤック語のスペシャリストでもあった。彼とマリー・スミス、そしてマリーの姉である故アンナ・ネルソン・ハリー(Anna Nelson Harry)らの努力によって、エヤック語が消えるギリギリの段階で言葉を記録することができた。言葉とは本来、学校で教わって身に付くようなものではなく、親がその言葉で子供を育てることによってはじめて生きた形で受け繋がれていくものだが、その時エヤック語の現状はもはや風前の灯火となっていた。しかし、ヘブライ語がそうであったように、記録をとっておくことで将来再び先住民の言葉が復活するかもしれないという希望を抱いている言語学者がいることは、私にとって驚異的な事実であった。

私は何度かマリーに会って様々な話を聞いたことがあったが(会話は英語)、自分が最後の語り部であることを彼女は非常に重く、悲しく受け止めていた。別れ際にエヤック語で物語を一つ聞かせてもらったが、それは非常に不思議な体験で、まるで時間が止まって逆流しはじめたような感覚に陥ったことを鮮明に覚えている。エスキモーやインディアンの言葉を聞くと、まるで風の音や鳥の鳴き声のような自然界の一部であるように感じるが、それは人間が持つ言葉の美しさを感じる一面でもある。

エヤックの領土は、90年代はじめにエクソンのタンカー座礁による原油流出事故の現場となったプリンス・ウイリアム湾の東に位置しており、周囲はアルーティック、アトナ・インディアン、クリンギット・インディアンといった大きな勢力に取り囲まれている。しかし不思議なことは、地理的にそれだけの異民族に取り囲まれているのに、エヤック語はそれらの言語の影響をあまり受けておらず、むしろ遥か南のアメリカ本土に暮すナバホ・インディアンの言語に近い。長い年月のあいだエヤック語が、周囲の民族の影響を受けずにどうして存続してきたのか、これは現在の言語学者が抱える大きな謎となっている。

ついでだが、アラスカ先住民言語におけるもうひとつの謎は、ハイダとツィムシアン・インディアンの言語(ともにトーテムポールで有名な民族)。この二つの言語は他言語から完全に孤立しており、いったいどこから来た民族であり言語であるのかまったくの謎とされている(ハイダに関してはアサバスカン諸言語、エヤック語、クリンギット語と繋がっていると推測する学者もいるようだが)。

エスキモーの言葉もふくめ、北米先住民の多くの言語はある年齢以上の世代でないと話せなくなってきている。その世代が消えれば、それとともに彼らの言語も消えることになる。言語学では、ひとつの言葉は約1000年経つと相互理解できないほどに自然と変化すると言われているが、人為的に消そうと思えば半世紀ほどの徹底的な沈黙を保てば、驚くほど簡単にできてしまうのだ。

Nov 1, 2009

切れないナイフ


Tissannartooqsuuavik ippisaangitsossuutit
(チッヒャンナットーッホーアビッ イッピヒャーギッチョホーチッ)

ナイフは狩猟をいとなむエスキモーにとって、子供から老人まで日常的に使うとても重要な道具だ。上記の言葉は、グリーンランド北西部の猟師たち(特に男たち)のあいだで使われる表現で、切れないナイフを使っている人をからかう言葉である。

直訳すると、「いつもムスコを勃起させているから、おまえのナイフは切れないんだ」。

つまり、「お前はまだ若いから、ナイフを上手く研げないんだ」、「ナイフを上手に研ぐには経験が必要だ」ということを言い表している。現地の猟師からこの言葉を聞いたとき、なるほどなあと関心して、しつこく聞いて発音をカタカナにまで表して日記に書きとめておいた(その間、彼は笑い転げていたことは言うまでもない)。

どんな文化にも独自の表現があるものだ。グリーンランドではエスキモー語(イニュクティトゥット)は話されているが、アラスカやカナダ西部では年配の人たちしか話せず、若者たちは英語しか理解できなくなってしまった。彼らにも生活や文化に根付いた独特な表現が色々とあったろうに、残念なことだ。

ちなみに、私がグリーンランドでの撮影に持参していた切れが悪いアーミーナイフは安物で、金属の硬度が低くやたら粘りが強くて誰が研いでもお手上げだった。

Oct 25, 2009

デンマークの探検家・民族学者クヌート・ラスムッセンについて


「自然は偉大だ。しかし、人間はさらに偉大だ」

『Fra Grønland til Stillehavet(グリーンランドから太平洋へ)』と題された、上下二巻から成るこの分厚い本の最終章は、このような言葉で締めくくられている。

これは、デンマークの探検家で、民族学者でもあったクヌート・ラスムセンが著した本で、一九二五年に出版された。ここには、グリーンランドからカナダ、アラスカ、シベリアにかけて暮らすエスキモーが同じ言葉を話す同じ民族であることを立証するために、一九二一年から一九二四年までの約三年間をかけて犬橇をおもな手段とし、各地のエスキモーを調査した第五次チューレ探検の話が収められている。この探検ではラスムセンが隊長を務め、生物学や考古学などの若き研究者たち五名と、助手のグリーンランドエスキモー六名が参加した。当時の北極圏は地図にさえおこされていない未踏の地が大半であり、カナダ北極圏内陸部を調査していた約一年半は外界との接触が完全に断絶していたため、隊員たちの命は母国デンマークでは絶望視されていたらしい。

モロッコ革で製本された扉をひらき、少々かび臭いページをめくっていく。すると、豊富な白黒写真や、旅で出会ったシャーマンたちの実筆による、ツンドラにさまようという摩訶不思議な精霊たちのスケッチなどとともに、活字たちが長い歳月に色褪せることもなく、生き生きと立ち上がってくる。この古ぼけた本のなかには、有史以前そのままのエスキモーの世界観が、冷静かつ詩的に表現されている。

旅の途上ラスムセンが出会った狩猟民の暮らしは「畏れの信仰」が根底にあった。彼らの自然観や生死感は、死者や動物の霊、そして自然界に対する畏怖の念から生じたものであり、それらからの災いを免れるために、様々な掟(おきて)を定めていた。掟は、まるで彼ら自身の行動や生活を拘束するほど無数に存在していた。しかしそれは、彼らの先祖が生み出した古くから伝わる知恵であり、無条件に従わなければならないものであった。何故ならば「死」以上に、災いがもたらす「苦しみ」というものを、彼らは恐れていたからであり、掟の存在とは、人間が逆らうことも解明することも決してできない、自然界や宇宙の摂理と同質のものでもあった。このような当時のエスキモーの原始的世界観は、白人とエスキモーの混血としてグリーンランドエスキモーの村に生まれ育ったラスムセンの理解さえも超越したものだった。

しかし、冒頭に記した言葉(自然は偉大だ。しかし、人間はさらに偉大だ)に至ったラスムセンの境地とは、いったいどのようなものだったのだろう。彼はほんとうの自然界の厳しさや恐ろしさ、そして、神々しいまでの美しさを、探検家としての比類稀な経験と、彼自身そうであった狩猟民族としての視線をとおして、常人よりもはるかに理解していたはずである。彼がこの長大な探検記の最後を締めくくった言葉が、人間中心の浅薄なる考えや、長旅を終えノスタルジックな気分に浸ってこぼした言葉だとは、私には到底思えない。

ラスムセンがこの旅の終わりをむかえたのは、アラスカであった。 アラスカには、西部に暮らすユピックと、北部に暮らすイニュピアックという二つの異なる言葉を話すエスキモーがいる(イニュピアックはカナダやグリーンランドのエスキモーと同じ民族でもある)。「エスキモー」という名は外来であり、その由来には諸説あるが、ユピックやイニュピアックという彼ら自身の呼称には「真の人々」という意味がある。昔から敵対することの多かったインディアンに比して、自分達をそのように誇り高く呼ぶようになったのか否か、今はもう知る由もない。ラスムセン以降、時代は急速に変化して、彼が見届けた人々の暮らしは大きく変わった。しかし、「真の人々」と自らを誇り高く呼ぶ狩猟民は、人間は大いなるものにより生かされているという、不変の真理に向き合いながら、現在も極北の自然に生きる。

八〇年以上も昔、ラスムセンたちは薄紅に染まる氷海の地平線へむけて、犬橇を走らせていた。それは、人間が抱く深い情念の世界へむけた旅でもあったのだろう。彼が残した言葉の真意とは何であるのか、時を越えて深く問いかけてくる。

Oct 15, 2009

機材を越える

写真が他の表現媒体と決定的に異なるのは、現場に立たなければ作品を作ることができないことだろう。想像力だけが豊かでも作品は生まれない。良い被写体に恵まれ、最良の光線状態に恵まれなければ良い写真を写せない。「芸術」という言葉はどこか胡散臭さを感じて好きではないが、あえてその言葉を使わせてもらえば、写真は出会いの芸術だと思う。風景や人間、動物など、様々な被写体や瞬間との良い出会いができるかどうか、写真はすべてそこに懸かっている。出会いに対する切なる祈りが作品に力を与えてくれる。

時折、カメラマンがまとめた作品集などを「ナニガシ氏がファインダーを通して見た世界…」などという言い回しで見出しをつけたり、カメラマン自らも「私がファインダーを通して見た〜の世界」という言い方をする人たちがいるが、率直に言って、ファンダーを通してしか世界を見ることができない写真家は失格であると思う。カメラのファインダーといった機材を超えることができていないのは、世界に対峙しながらも写真という偏狭な枠組みにとらわれしまっている。

では、どうしたら機材を超えることができるか?
自分が生まれ持った二つの目玉で「見る」という行為に徹するのである(一眼レフでの手持ちは、とかくファインダーのなかで構図を決めがちになるので、どうしてもファインダーのなかで見ながら考えてしまう)。更に、視覚に加え、人間が備えている感覚器官を総動員する。嗅覚や聴覚、肌からの感覚などなど。 写真のプリントのサイズなどたかが知れたものである。全器官を使うことは、限られたプリントサイズの中に、いかに無限の空間の広がりや世界の深さを感じさせるかに密接に関わってくる。主要な被写体よりも、むしろその後ろに写っている何気ない背景、地平線や空が重要なのである。これは、広重の浮世絵や、日本画を見ると明らかである。日本画や浮世絵は、遠近法を駆使する西洋画と違って平面的だと思われている。しかし、そこには放射方向だけでなく、画面の深い奥行きがある。空間処理はもちろんのこと、背景の処理の仕方、光やグラデーションの扱い方に秘密があると思う。そこに描かれている背景には、心理的に引き込む強烈な作用がある。写真でファインダーをのぞくのは、ピント合わせと画面の四隅をちょいと見て構図の確認をするだけなのである。

プリントをする際には、ネガに写り込んでいる物質の根源的な部分に着目する。全ての物質は異なる反射率があるし、表面の質感や感触も温度も異なる。それを考えることによって立体感や空気感、臨場感までも印画紙上に表現できることにつながってくる。撮影のときに全身の感覚を総動員して感じた記憶を、このときに一斉に蘇らせ、プリントをする。だからプリントをしているときは、いわばトランス状態になっている。

Oct 1, 2009

プリントを焼くということ


自分で制作しているプラチナプリントは、数種類の薬品を調合して紙に塗布し、印画紙を作る段階からはじめるので、非常に手間が掛かる。しかし、そういうことは別として、プリンター自身のモノクロームを見る眼がしっかりとしていないと良いプリントが作れないことは、銀塩のモノクロプリンティングと同じだと思う。アンセル・アダムスは、「ネガが楽譜で、プリント制作が演奏だ」というようなことを言ったと思う。ピアニストだったアダムスらしい言葉だが、私はもう少しそこに付け加えたいことがある。プリントは、自分自身に向き合う行為でもあるということだ。

以前、写真展を開催したときにギャラリー側に販売用のプリントを納めるため、何点かプリントを制作しなければならなかった(私の場合、基本的に一点のネガからマスタープリント一枚しか焼いていないので、注文などが入ったときにプリントを制作する)。ところが、このときのプリント制作が非常に苦痛で、たった一枚焼くと、まるで身体が腑抜けのようになってしまい、その日は何もする気がなくなってしまったのだ。必要点数のプリントを終えるまで、苦行のような日々が続いた。最初は単に体調が悪くて疲労がたまっているのだろうと思っていた。しかし、かなり後になってからわかってきたのだが、どうやらその時、取り組んでいたネガに自分自身のエネルギーを吸収されてしまっていたのだと思う。こう書くと、オカルトっぽく聞こえるかもしれないが、あのプリント後の倦怠感は、そう言い表すしか表現のしようがない。何か強力な磁力を持った物体に、何もかも吸い取られたような感覚だ。

考えてみると、「プリントして腑抜け状態」を経験する以前は、プリント制作はいつも撮影から帰ってきた直後だった・・・。極北への撮影行はいつも単独であり、危険や様々なリスクがともない緊張感に満ちている。そのような状況下で、8x10インチの大型カメラで一枚一枚撮影する。だからこそ、それぞれのネガには撮影時の私自身の念や、ほとんど祈りのような気持ちが入り込んでいると思う。

撮影時には大きなプレッシャーが掛かるが、その反動で撮影後は突き抜けんばかりの解放感と充実感で心身ともに満たされる。プリント制作するときは、いつもそのような時だった。また、プリントをする際に取り組むネガのイメージをしっかりと持つためには、撮影時に五感で感じたすべての感覚(風の音や大気の冷たさ、太陽のぬくもり、匂いなど)を一斉によみがえらせ、それをプリントにフィードバックしなければならない。それは、腹をくくって旅立った自分自身と対峙する瞬間でもあり(本当にそういう感覚がある)、よほど気持ちが充実していないと、撮影時の自分自身の気迫に負けてしまうのだ。

ギャラリーにプリントを焼いていたとき、確か前回の撮影からは時間が経った時期だったように思う。また、現在は相当な枚数のネガがたまった状態なので、時間さえあればプリントを焼いているが、いつも気持ちを高めて感覚を開いていないと良いプリントを作れないし、相変わらずエネルギーを吸い取られてしまう。

Sep 29, 2009

first step

15年来、極北の人と自然をテーマに撮影を続け、モノクロームはプラチナプリントで制作をしています。撮影の旅やプリント制作、写真全般、日常などで感じたことを、まったくの不定期更新、気まぐれで綴ります。