Dec 17, 2012

ある日のメモ書き プラスα

福沢諭吉は、現在使われている「権利」という語を「権理」と書いていたそうだ(「権利」は西周が「Right」を訳したもの)。「理(ことわり)」は物事の筋道だが、「利」は今の感覚からするといかにも利益を思わせる。

福沢諭吉の言った「通義」とは、当時の日本全国に通じる正しさの基準というものがあり、それが物事の判断の出発点になると考えたのではないだろうか。通義によって理をはかり、はじめて人々は物事を自由に行える・・・。ある程度の文化や歴史認識を共有しているからこそ成り立つ考えだろうが、個の尊重をはき違えた時代と比べると明治期の人々は道理を非常にわきまえていたと言える。

民主主義は多数決でものごとを決めるが、もしも多数派による判断が間違っていたらどうするのか?多数派だろうが少数派だろうが、耳を傾けなければならない通義があるはず。単に投票で決めることと、通義を踏まえて(議論・対話して)決めることは大きく異なってくる。当然、このなかには戦後の日本に根付いた(植え付けられた)実に様々なタブーも含まれているだろう。





顔と顔を合わせて向き合って議論していくことは、場合によっては心の痛みを伴うこともあるだろう。でも、声色、会話と会話のあいだの沈黙、相手の視線や微妙な表情など、言葉以外のものが空間を通じて伝わり、以心伝心となり、はじめて心に通じてくることもある。

インターネットは現代の新しい出会の場であるという人がいるが、それならば同時に新種の「手軽な決別の場」でもあるだろう。相手の主義主張が気に喰わなかったり、ほんの些細なすれちがいを切っ掛けにダイアローグ(対話)を築く以前に、相手の顔も見ないでいとも簡単に関係を断ち切ることができるのだ。ネットによって「出会い」のスピード感が上がっただけのことだったら、なんとも味気ない。しかも「別れ」のスピード感も上がっていたとしたら、人との関係に対して意識が希薄になったということか。

人間は間違いを犯し得る。善意に基づいたとしても間違い得る。人間は永遠に不完全なもの。