May 16, 2014

「芸術」という言葉がはらむ胡散臭さ

これまで「芸術」という言葉は、極力つかうことを避けてきたように思う。どこか「胡散臭さ」とか「如何わしさ」を感じて、「表現」とか「創作」という言葉を代わりに使って切り抜けてきた。「芸術」とはなにか自分なりに考えたこともあったが、勝手に自分で新たな定義を作り出して乱用するわけにもいかない。言葉の意味の問題なのだから、素直に語源をさかのぼって考えるしかなかろう・・・(「藝術」という語は、明治に西周によって「liberal arts」に対応して造語され、その後「art」と同義語として扱われるに至ったそうなので、まずは「art」という語を前提として考えてみる)。

「アート」とはラテン語の「ars(アルス)」が語源で、「技術」「才能」「資格」「自然の秩序」という意味で、さらにその語源はギリシャ語の「techne(テクネー)」にあるという。「テクネー」とは、当然ながら「テクニック、テクノロジー」の語源。「テクネー」は、何かを制作するための技術であるわけだが、その「制作」は古代ギリシャでは「ポイエーシス」と言われていたらしい。

「ポイエーシス」には、「制作、詩作」という意味があるそうだが、その制作行為とは、「自然を露開させること」と認識されていたらしい。どういう意味だろうか?ミロのビーナスとかニケ像などの古代ギリシャの彫像。その荘厳な姿は、彫刻家の技術(テクネー)によって、もともと大理石のなかに埋もれていたミロのビーナスなりニケの姿を余分な大理石を削り落とし、陽光のもとに導きだしたと考えられていたそうだ(そういう意味では、日本の仏師が木の塊から仏像などを彫りだす行為とも同じだと思う)。

隠れて未発見の状態であるものを、「テクネー(技術)」を持ってあらわに開示するという行為・・・そのことを考えれば、おのずと「芸術」という言葉が持つ本来の意味がわかってもこよう。

現代になって、「技術」というものが、利便性とか効率性、合理化のための便利な道具になってしまった面が多いにあることと、「芸術」が単なる自己表現になりさがったことは、通底しているように思えてならない。つまり、自然と密接にかかわり合った本来的な在り方から離れて、人為的、よりヒューマニズム的(人間中心主義的)になったのではないだろうか。この人間の理性への過信がもっとも顕著に表れているのが、いまのテクノロジー崇拝だとも考えられるのではないだろうか。

そう考えてみると、自分にとって「芸術」という言葉に対する抵抗感とは、「ヒューマニズム」に端を発しているように思われる。「ヒューマニズム」を臆面もなく振りかざす行為と、現在広く使われている「芸術」という言葉がはらむ如何わしさは、同じ嫌悪感をもって腹の底からわき上がってくる感じがするからだ。臆面もなく芸術家を主張したりヒューマニズムを主張したりすることができる人を、少なくとも自分は信用できない(「人間の命は地球よりも重い」などというのはまったく論外だと思う)。

ときおり、アート市場でびっくりするような値段で作品が売買されたりして話題になるが、自分が「芸術」という言葉に感じていた嫌悪感は、芸術作品がそのような投機目的や拝金主義者たちの対象であること以上にもっと深い部分に根っこがあるようだ。このことに関しては、もう少し自分の腹の底をさぐって何が潜んでいるのか確かめてみる必要がありそうだ。