May 15, 2014

言葉、世界・・・sila

「言葉で掛けた魔法を言葉で解くことはできない。だから音楽や絵画や写真が必要とされる」なんて言おうものなら、小説家あたりに目を吊り上げて怒られそうだし、「それは思考停止状態だ!」なんて糾弾されもしそうだ。

しかし、言葉を使ってしまうと、一向に知りえなく、そのまま一番肝心で大切なことを取りの逃がすことがある。何かの光景を目の当たりにして当惑したり、感動したり・・その気持ちをなんとか言葉にしたときには、もう本来受けた衝撃や感動したことから遠のいたりしている(そのために、小説家は行間からナニゴトかを立ち上がらせたり伝えたり努力するのだろう)。

このほんらい混沌とした世界を認識するために、人間は言葉を使う。これまで混沌に無数の区切り目を入れて「世界」を構築してきたし、この今も、しつづけている。「人間は言葉の生き物」といわれるのもその所以だが、ならば、区切り目を入れるごとに、区切り目と区切り目のはざま(混沌、闇)はさらに増えていくはずでもある。人間はそのことに恐れや不安を感じ、もうどうにも行き詰まってしまったときには、とうとうその言葉を「解体」したりもする。結局それは、「言葉」どころか「自分自身」を解体していることではないかとも思えるのだが、物事を知れば知るほど、混沌(謎)が深まってゆくという深遠さを物語っているかのようでもある(世界の謎が深まるというよりも、自分自身の謎が深まってゆくと言うべきか?M. ハイデッガーの言った、「存在は了解のうちにある」とか「現存在(人間)が存在するかぎりでのみ、存在はある」という言葉が思い起こされる)。

「世界」というものの認識の仕方自体、人間の言葉のうえに成り立っているともいえる・・ということは、言語が違ってしまえば、世界観も変わるということでもある。文化によって考え方や価値観が違うのも当然だろう。文化の「核」は言葉なのだから。

だとすれば、常に「速度」が求められる(強いられる)現代で、言語とか世界観というものはどのように変化しているのだろうか?テクノロジーというものは、蓄積された知識や技術が多くなればなるほど、その発展の度合いは一層加速してゆくというが、言語の変化の加速度もやはり増しているのだろうか?

はやり廃れが激しい今の世の中で、「ひとつの言語が消える」などということを日常的に考える人はあまりいないと思う(そんな余裕もないだろうが)。しかし、言語学的には、言葉というものは放っておいても、おおよそ1000年ぐらいで相互理解ができないくらいに自然と変化すると考えられている(同化政策のように、強制的にその言語の使用を禁止しない場合)。


以前出版した写真集「sila」(イヌイット語で「世界」の意)で、アリュート、ユピック、イヌイットの親子三世代の家族のポートレートを含め、三つの言語(西グリーンランド語(アリュート・エスキモー語族を代表して)、日本語、英語)で表記したのは、エスキモーの文化に対して敬意を表するのが第一義でもあるのだが、(たった半世紀の)同化政策の結果「今世紀中にほとんどの地域でイヌイット語を話せる世代が途絶える」という事実、この世から、ひとつの「世界」が消える、という思いにも根付いている。