Nov 17, 2015

『生誕100年 写真家・濱谷浩 』展を見て

先日、世田谷美術館で開催されていた『生誕100年 写真家・濱谷浩 』展を見に行った。どんよりとした肌寒い平日だったが、思いのほか来場者が多かった。

展覧会は、1930年代の東京のスナップからはじまり、作品集『雪国』としてまとめられた1940年代の豪雪地帯の新潟の暮らし、そして日本海側の暮らしを写した『裏日本』、安保闘争、各界の著名人を撮影した『學藝諸家』と続いた。濱谷氏といえば『雪国』と『裏日本』は特に有名で、『裏日本』の初版本は結構な値がしたが私も手元に持っている。

濱谷浩氏といえば、キャパやカルティエ=ブレッソン、『LIFE』誌などで代表されるフォトジャーナリズム全盛期を生きた人だ。同時に、世界中で社会や文化がかなり大きく変化した(失われていった)時代でもあったと思う。

写真展を見ていて、ひとつ気になったことがあった。解説では、安保闘争や当時の政治家たちの決断から人間(日本人)に対して幻滅し、撮影対象を国内外の自然風景へと移していったとあった。氏の風景写真についての文章をしっかりと読んだことがないので、あまり述べることはできないのだが、はたして人間(日本人)に幻滅したからと対象を自然に変えたところで、根本的な問題からは決して自分自身を誤魔化すことはできなかったのではなかろうか?その問題とは、氏自身も人間であり日本人である、という矛盾だ。そんなことは当然、氏もわかっていたことであろうが・・。

1964年に出版された『日本列島』という風景写真集の冒頭には、「人間は いつか 自然を見つめるときがあっていい」という言葉がある。いまの私の解釈では、この言葉からは人間との闘争からの疲弊感のようなものが感じられる。だが、それは他者との闘争であったと同時に、自分との闘争なのだったと思う。”ほんものの仕事” をする写真家にとっては、人間を撮影しようが自然を撮影しようが、結局は政治的イデオロギーなどをはるかに超えた自分との闘争を心の闇のなかに引きずっていくほかないのではないか(私自身、そういった自然写真家たちを知っている)。鋭い感性と洞察力の持ち主というものは、あらゆる世界や自己の矛盾を否応にも察知してしまうからだ。これは創作に関わる一部の者の宿命としか言いようがないことだと思う。

写真展を見ながらそんな想いがして、贅沢な不満ではあるが、できれば濱谷氏のその後の風景写真も展示の流れのなかで見てみたかった。その流れのなかでこそ、氏がどのように自分自身の葛藤を克服あるいは受け入れるようになっていったか(あくまで「葛藤」を持っていたらの話だが・・)、それによって世界観がどのように変化していったのか、また日本人として日本をどのように見つめ返したのかを感じてみたかった。また、もしも人間と自然の関係は決して断ち切ることはできないということを撮影をとおして経験的に悟ったのであれば、それを示すのも写真家としての仕事だと思うのである。そう思うのは、私が高校生の頃に出会った、カナダで国立公園の制定にかんした仕事をされていたある日本人の理学博士の言葉が想起されてくるからだ。

「自然を愛するとは、そこに暮らす人々を愛することでもある」





Jul 6, 2015

アラスカと日本の夏休み

アラスカでの学生時代に世話になっていた教授とあるSNSでつながっているのだが、夏休みに入りアラスカ州からオレゴン州まで車で旅をするらしく、「三週間ではなく、三ヶ月あったらなぁ」なんて、大抵の日本人が見たら「なんて贅沢な!」と嫉妬するようなことを書き込んでいた。

日本以外のアジア圏や他地域の夏季休暇の事情は知らないので、自分の経験で知っている範疇でしか書かないが、ヨーロッパでも夏場は数週間に渡ってヴァケーションをとる。グリーンランドに撮影に行く場合はコペンハーゲン経由なのだが、旅程のタイミングをあやまると向こうの夏季休暇中にはまってしまい、宿や乗り物の手配にけっこう苦労したりする。コペンハーゲンだけでなく、グリーンランドのような『僻地』さえも観光客でごった返すのだ(この期間、やはり2〜3週間はある)。

日本でどれほどの勤め人が三週間の休暇をとれるのか知らないが、ほとんどの場合、このアラスカ教授氏の 1/3 ぐらいではないだろうか(当然アメリカでも職種や人によって異なるだろうが)。夏休みの短さが「日本人は勤勉だ」と言われてきたことに多少でも関係があるかもしれないが、そもそも、日本人はもとから<勤勉>な民族だったのだろうか?

古典落語のまくらで「江戸の頃の職人たちは半日くらいで仕事を切り上げて、あとは好きなことをしていたようです・・」というのを聞いたことがある。酒なども、一度にたくさん買ってしまうとあるだけ飲んでしまって仕事にならなくなるから、奥さんや子供が父親のために一回に飲む分量だけを量り売りしてもらっていたとか・・(これは昭和期に入ってもそういうことがあったと知り合いから聞いたことがある)。いずれにせよ、過去へ遡るほど日本もおおらかな時代であったことは間違いないようだ。

ところで、「ドロモロジー(dromologie)」という言葉がある。これはギリシア語の「ドロモス:前進、競争、逃走」と「ロゴス:原理、体制」を合わせた造語らしい。つまり、<人間を先へ先へと走らせ、追い立てる強制力>という意味がある(M.ハイデガーの言った<ゲシュテル>もこれに近い認識だろうか)。産業革命以降、工場の稼働率や費用対効果を上げることから、機械の始動・稼働時間、停止時間に合わせて労働時間が逆規定され出したという説、言い換えれば、人間自身が機械にあやつられる事態がこの時からすでに始まっていたという考え方もドロモロジーは含んでいる(日本の電車などの正確無比な発着時間には、ドロモロジーが潜んでいると考える人もいる)。

この造語はポール・ヴィリリオというフランスの思想家によるものなので、この<不可視の強制力>に対する問題意識は、産業革命が起こったヨーロッパご当地で生まれたわけだ。以前から感じていたことだが、思想・哲学の系譜や科学技術の進歩に対して、その発祥の地であるヨーロッパではつねにそのことに対して内省する力学がはたらく伝統があるように思う。科学技術やそれを支える哲学や思想さえも問うドロモロジーという問題提起も、その一例だと思う。こういった思考・哲学や科学技術に対する反動した力学が起きる土壌がヨーロッパにあるのは、デカルトやパスカルなどをはじめとする多くの哲学者が同時に自然科学者でもあることに理由があると思う。理論・技術とそれを扱う思想は、切っても切り離せない関係なのではないだろうか。

翻って日本はどうだろうか?哲学・思想にせよ科学技術にせよ、幕末から明治にはいって近代化の目的(というか最初は西欧諸国の植民地支配下にならぬための先手としての近代化ではあったのだろうが)のために表面的な部分だけをどんどん輸入して普及・発展させることだけを優先して、そのことを問うたりする根底の思想がおろそかになってきた面はかなりあったのではないか(福沢諭吉などはこの問題を深く考えて、当時すでに啓発していたようだが)。

こんな問題を今更ここで書かなくてもどこかで既になされてきたわけだが、毎日が忙しなく流れていくことに身をまかせ、何も考えずにひたむきに生きる方が、生や自己を問うたり考えたりするより、よっぽど楽なこともある。しかし『アラスカ教授氏の夏休みの短さに対するちいさな不満』に触れて、実は教授氏もそれなりにアラスカ版ドロモロジーの支配下にあるのか〜とか、日本人の夏休みの短さは「日本人が勤勉だから」というよりも、「日本人は、<不可視の強制力>に対して従順だから」と表現した方が良いのではないか、だとしたら「なぜ従順なのか?おのれの思想を問う・内省する姿勢が、とりわけ日本人には欠落してきたからか?」という疑問も生じてくるなあ・・などと考えてしまうのである。

「アーティストなど、社会の輪からずれ落ちたヤツが。大きなお世話だ!」と言われたらおしまいなのだが・・(自分がアーティストなどと思ってはいないんだけど)。

May 22, 2015

Viewing the Silence of the Valley.


Robertson Fjord in the northwestern Greenland.

May 21, 2015

エトヴィン・フィッシャー







今は亡き知人から、エトヴィン・フィッシャー著の「音楽を愛する友へ」という文庫本をもらい、原野での撮影中、テントのなかで何度も読みかえしてきた。日本語訳の堅苦しい文体もあって少々とっつきにくい文章だが、音楽のことに限らず、日常の何気ない光景の描写にも繊細な人間性があらわれていると同時に、著者の洞察力の深さが感じられる良書だ。


バッハの平均律を最初に録音し、現代に<再発見>したのが、フィッシャーだそうだ。彼の演奏がもっとも真摯にバッハの音楽に向き合っているといまなお評されることがあるのは、信仰心から、神にささげる気持ちで作曲されたものを、演奏者の<独創性>を発露するための作品としてフィッシャーは受け取っていなかったからなのかもしれない。


自然写真の評論などでも、「打ち震えるような感動の気持ちを作品に表現しろ」というような、万人に理解可能な単純な論評で安易に総括する評論家がいるが、そんな人には例えば「自然に分け入ると、襟をただすような気持ちになる」という感覚は理解できないのかもしれない。<自己>が無化してしまうような事態が世界にあることを知らないのかもしれない。いや、もし知らないのならば当然のことだろう。それは根本的に<経験>するしかないからだ。出会った光景なり事象なりに内包される厳粛さに自分の波長が一致し、<感動する気持ち>をはるかに超えた<畏怖の念>を抱きある種の信仰心が芽生えるような事態に陥ることも、滅多にあることではないにせよ存在するのである。そんな稀有な世界の奥深さを探求し作品に表すことは困難ではあろうが、卑小な自己表現だけに埋没するよりもそのことに努めることの方が、芸術家にとってはより本来的な仕事のように思う(もはや現代では「だった」と過去形で言うべきなのだろうか)。それは<刺激>や<斬新さ>、<わかりやすさ>などではなく、世界やものごとの<深さ>を探求することだろうから、見る方にとってもそれなりの見る努力が強いられることではあろう(往々にして古典と呼ばれる作品にそういった側面が見られるように)。


「語りえぬものには沈黙しなければならない(L. Wittgenstein)」という言葉があるが、ものごとの深さの探求とは、「語りえぬもの」に通じる長い道のりなのかもしれない。それは、ただ<生きること>のなかに示され、語ることもできず、語るべきでもない(また、こうやって書くべきでもないのだろうが・・)。思えば、私自身がこれまでに魅了されたすべてのアーティストたちの作品から共通して感じられることは、強烈な彼らの<生き様>であった。そして、私自身はそこに一番の感動を覚えてきた。それはまさに、彼らの生に対する真摯な姿勢がありありと体現されているからだろう。そのような作品においてはまさに、「美とは人々を(真実に)おびき寄せるための餌でしかない(S. Celibidache)」のではないか。






Jan 12, 2015

写真展 silat naalagaq 〜世界に耳を澄ます〜

1月9日から、東京のフォトギャラリーインターナショナルで「silat naalagaq 〜世界に耳を澄ます」を開催しています。

今回は16 x 20 インチの大判プラチナプリントを中心に、アラスカ、カナダ、グリーンランドで撮影した作品を展示しております。現在、プラチナプリント用の拡大ネガはいわゆる「デジタルネガ」が完全に主流となっており、私自身もデジタルネガを作ってプリントをすることがあります。しかしながら、理想的な拡大ネガを模索するなかで銀塩フィルムの持つ潜在的な情報量、階調の豊富さを再認識し、16 x 20 インチの超大判銀塩フィルムを使った拡大ネガを田村政実氏に依頼し、この数年間大判プリントを集中的に制作してきました。

写真展開催中の1月30日には、私の師でもある水越武先生とのトークを開催予定です。すでに多くの方々から予約を頂いておりますので、こちらで早めの予約をお勧めします。







Silat Naalagaq 
シラ ナーラガ
~世界に耳を澄ます~
 
「シラ ナーラガ」とは、グリーンランド北西部に暮らすイヌイットのあいだで日常的に使われている言葉で、直訳すると「天気が親分だ」という意味である。しかしどうやらこの表現はグリーンランドだけにとどまらず、もっと広域にわたって使われているようだ。カナダ北極圏をまたぐバフィン島を旅したときにも、現地のイヌイットが「Weather is the boss here. (ここでは天気がボスさ)」と言っていたことを思い出す。そのときの会話は英語ではあったが、風変わりな言い回しをするものだと感じていた。極地ではひとたび天気が荒れると、数日間、場合によっては数週間にわたって自然が猛威をふるい、漁や狩猟がおこなえなくなることも珍しくはないのである。

アザラシやセイウチ、鯨類などの海洋動物をおもに獲るイヌイットは、天候、海流、流氷、雪や棚氷などの状態に依存しており、狩猟は自然界との精妙なバランスのうえに成り立っている。気象や天候は、彼らの言葉で「シラ」と言いうが、その語には「外」「空気」「大気」「世界」「知性」「知恵」などの意味もある。さらに古い時代にあっては、天候をつかさどり地球上のあらゆる生命を支えているという「大気の精霊」の名でもあった。平穏な天候と狩猟の成功を切望するイヌイットが、死活をかけて創造し築き上げてきた世界観、宇宙観が、シラという言葉に内包されているといえよう。そして「ナーラガ」という言葉が意味する「親分(boss)」とは「指導者(leader)」、「チーフ(chief)」と同義であり、つまり「傾聴すべき存在者」という意味が包含されている。

極北では有史以前から様々な文化が生滅し、そして融合し、いまでは知る由もない神話の世界が綿々と営まれてきた。人の気配など微塵もないツンドラの原野には、植生に被い尽くされ風景の一部と化した廃墟がいまなお残る。山の斜面に無造作に置かれた岩と岩の影に見え隠れする地衣類が生した骨は、それが原初の墓であることを物語る。ツンドラを吹く風には、はるか遠いむかしにユーラシア大陸からわたってきた人々の軌跡と鼓動が、仄かながらも息吹いているのだ。

旅をとおしてかいま見る生の営みは厳粛であり、普遍の真実に触れているという感触を与えてくれる。しかし、カメラのピントグラスの向こう側に見るのは、麗しい光景だけではなかった。テクノロジズムへの妄信を本源とする急進的な文明の波から、もはや極北の地も免れえないという現実である。家族や共同体という核が急速に変質していくことは、歴史と伝統から紡がれてきた「知恵」が日常のさまざまな場面から追放され、忘却されてゆくことでもある。「生と死」という人間の本来性にかかわる問いは、今日において、宗教や信仰の場においてだけで解決しうるものではなく、まして科学の力をもって解決できるものではない。狩猟を基盤とする生活は、そんな根源的な問いをもっとも身近に体験し共有できる原初の生活形態なのだ。

時として、美しさや儚さ、厳しさという観念さえ超越した様相をあらわす世界に、私は言葉を奪われ、沈黙するしかない。しかし、時代の運命をみつめながらも、極北の風景にいまなお残る歴史と記憶をたどる旅を続けていきたい。その途が未来への展望としてつながり、いまをどう生きるか、そして己の生をまっとうすることの意義へと通じるであろうからだ。
                                                                                                                             
                                                                                                                                        八木 清




旅を続ける八木清

 道東の我が家に、驚くほどの特大リュックを背にした八木清君が訪ねて来たのは199311月だった。星野道夫さんの紹介で、まだアラスカ大学の学生だった彼とは数度の手紙のやり取りがあったが、この時が初対面だった。
 それから彼と行動を共にする旅が始まった。アマゾン源流部など熱帯地方が多かったが、彼の語学力と若い体力には大いに助けられた。品と信を好み、限界まで追求し徹底しないと
気が済まないところなど、性格面でも共通点があり、彼とは今でも同志的な繋がりを強く感じている。
 時とともに社会は移り変わる。理想を追いかけ、それと逆行する動きをすれば、時代と血みどろの格闘をすることになる。

 プラチナプリントの『シラ ナーラガ』を見せて頂き、彼にはその覚悟ができていると私は読んだ。この奇跡のような旅はまだ終わる気配がない。敬意を込め、彼の厳しい旅を温かく見守りたい。   

                                                                                                              水越 武

                                                                                                                   
                P.G.I. 写真展案内 「silat naalagaq 〜世界に耳を澄ます〜」より