Jun 18, 2011

「sila」sneak preview 1


ケースはタイトル文字とエスキモーの面の空押し。
至ってシンプルなケースですが、面の型を作るためのデータ作成が相当大変だったそうです。デザイナーの杉本さん、ありがとうございました。

35 x 35 cm の大型写真集です。
タイトル文字のブルーとグリーンの微妙な中間色は、グリーンランド北部で見た氷河の色をイメージしています。氷河の色は透過光なので印刷での完全な再現は不可能ですが。

テキストは英語、カラーリスット(西グリーンランド語)、日本語での表記(写真は西グリーンランド語)。カラーリスットはグリーンランドでの呼び名ですが、アラスカとカナダのイヌイットの言葉と同じ言語です(方言の違いはあります)。グリーンランドではまだ第一母語として話されていますが、アラスカとカナダではある年齢以上の人たちしか話せなく、そのような地域では今世紀中に消滅してしまう可能性が大きな言語です。

アラスカ、ヌニヴァック島のユピック・エスキモーのシャーマンの言葉から物語が始まります。この言葉は、デンマークの探検家クヌート・ラスムッセンが1920年代に第五次チューレ探検のなかで記録したものです。薄い斑模様のトレーシングペーパーに文字を印刷。1ページ目の写真が霧の向こう側に透けて見えるイメージでデザインしました。

入稿はオリジナルのプラチナプリントで。テスト印刷を繰り返し、プリンティングディレクターと印刷現場の方々のおかげで、最高の印刷結果を得ることができました。「これくらいの印刷は目指したい」と、目標とした高品質の写真集は何冊かありましたが、それらを凌駕するほどです。

Jun 17, 2011

写真集発売・写真展開催


写真集「sila」の発売を記念して、個展「sila」をフォト・ギャラリー・インターナショナルにて開催します。7月1日から8月27日まで。

展示作品は、すべてプラチナパラジウムプリントです。

また、写真集掲載作品もすべてオリジナルのプラチナパラジウムプリントから再現した高品位な印刷です。

Jun 13, 2011

田口ランディ x 八木清 in 早稲田大学小野記念講堂



これは、7月6日から開催される「グレイト・スピリット:カーティス、サルダール=アフカミ、八木清の写真」の関連企画として開催されます。

先着順、入場無料。

May 24, 2011

「グレイト・スピリット / カーティス、サルダール=アフカミ、八木清の写真」展開催


7月6日から清里フォトアートミュージアムで開催される「グレイト・スピリット/カーティス、サルダール=アフカミ、八木清の写真」にて、プラチナプリントを出展します。

エドワード・シェリフ・カーティスといえば、アメリカインディアンの肖像写真などで有名ですが、彼はアラスカも訪れてヌニヴァック島やノアタック周辺のエスキモーも撮影しています。私も写真家を志す以前から彼の名と作品を知っていました(大学で受講した人類学、言語学などの授業では、必ず彼の名前や功績、写真やフィルムが紹介されました)。

現在は、彼が生きた時代とは社会(先住民社会も含め)も写真も大きく変化したところがあり、私自身も”彼のような作品”を写すことよりも、”自分が生きるいま現在”を写すことを常に考えてきましたが、やはりカーティスの作品は心のどこかで意識し続けてきたように感じます。私自身の作品が彼の作品と同時に展示されることは夢にも思ったことはなく、このような機会に恵まれたことを大変光栄に思います。

サルダール=アフカミ氏の作品は、今回が日本初の発表となります。中判カメラで撮影して拡大ネガから大きなサイズのプラチナプリントを制作されているそうですが、中判の機動性を生かした独自の作品を見ることができるのは、いまから楽しみです。

この写真展にあわせ、東京でプリイベントの開催も予定されています。
詳細が確定次第、このブログでもお知らせします。

Apr 29, 2011

写真展&写真集


この夏は、写真集出版とふたつの写真展(個展と3人展)を予定しており、それに向けたプラチナプリント制作と写真集制作も、そろそろ佳境にさしかかろうとしている。

写真集の内容は、8x10インチの大型カメラで撮影してプラチナプリントで制作しているテーマであるが、最初はRCペーパーに焼いて印刷の段階でオリジナルのプラチナプリントにイメージを近づけることを考えていた。しかし、結局入稿用にすべての作品をプラチナプリントで制作した。60数点の作品を集中してプリントした時はほんとうに大変だったが、これだけの作品数を集中的に焼くと、プラチナプリントの一筋縄でいかない難しさや奥深さを再認識した。

印刷を考えると、プラチナプリントの特に暗部の再現性や紙目の問題など心配なところもあったが、自分自身の手で制作した納得ゆく作品で入稿したい気持ちもあった。また、一般的に作品保護などの理由でプラチナプリントで入稿する写真集というのは珍しいのではないだろうか。そして先日印刷会社から初稿が上がってきた。これまでにテスト印刷を何度か行ったこともあり、結果は上々だった。だが60数点も作品があるので、なかにはもっと詰めなければいけないものも当然ある。

しかし、初稿を見れば見るほど、スキャニングを含めた今の印刷技術には驚かされる。プリントに写っているものは、あますところなく再現されている。逆に、あまり見えてもらいたくないもの(強調されたくないもの)まで再現されているものもあるので、そういう部分は極力、修正してもらわないといけない。

今回の作品集を作ろうと思い立ってから既に数年を経て、予想以上に時間が掛かってしまった。内容や装丁の変更など紆余曲折はあったが、焦らず時間を掛けただけの内容と質になってきたと思う。そしてまた、ある方との十数年以来になる偶然の再会を切っ掛けに、制作に関わる様々なご協力を得ることもできた。

3言語表記(英語・西グリーンランド語・日本語)の大型本で、イメージサイズはオリジナルプリントの等倍。紙にもこだわり、風合いや手触りは実際のプラチナプリントの印画紙に近いものを使っている。最高のプリンティング・ディレクターの方々にも恵まれた。印刷のクオリティは絶対に落としたくないので、これからが勝負どころである。

Apr 7, 2011

「解釈」と「理解」

だいぶ前のことだが、ある若手New Color 作家が個展を開催した際の雑誌のインタビューで、「自分の作品は、見る人それぞれが各々感じるように感じ取ってもらえればいい」ということを言っていた(この際『New Color』 とかどうでも良いが)。なんだかリベラルっぽくて耳障り良く聞こえるかもしれないが、とてもじゃないが自分にはこんな無責任なことは言えないと思った。

武満徹は「孤独な感情がふれあうところに、音楽が形をあらわす。音楽は決して個のものではなく、また、複数のものでもない。それは、人間の関係の中に在るものであり、奇妙ではあるが、個人がそれを所有することはできない」と言った。この言葉は長らく私の心の内にあり、ほんとうにこれがどういうことなのか、常々考えていた。

あくまで「生命」というものにまっこうから対峙して創作に打ち込んでいる限り、常に変化する対象に対峙しているのであり、そもそも自分自身も生命そのものなのだ。命あるものは死ぬまで変化、変容し続ける(肉体的にも精神的にも)。そう考えると、作品というものが自分の変化・成長の過程で生まれる分身とも思え、同時に愛おしさを感じる。でもその反面、変化の過程ではがれ落ちる単なる「垢」なのかもしれないと思うこともある。両者の共通点を現代風に言えば、DNA らしきものが含まれている点か?であればこそ、やはり自分の作品に対してどこかで「責任」というものを感じるし、他人にどう受け取ってもらっても良い、とはどうしても思えない。だからこそ、自分の撮影テーマに関するリサーチや裏付けというものは、徹底的にしなければならないと思っている。

ある「作品」に対して「解釈する」という言い方がされるが、そもそも「解釈する」ということが他人のために発せられるものならば、「理解する」ということは自分のためであると思う。私は撮影をとおして見る世界を自分なりに必死で理解しようとしているが、どうしても理解することができない。ましてや「解釈」するなんて領域には、とてもではないが到達できない。その意味で作品を発表するということは、何かの途上にある自分自身をさらけ出しているとしか言いようがないかもしれない。その姿をとおして、自分が惹かれる世界や「有り様」というものを訴えようとしているのだろうか。

考えてみれば、音楽でも文学でも媒体は違っても、私自身が惹かれる作品の根源には、その作品に滲み出ている作家の生き様にある。だからこそ、優れた作品には分野を超えて共鳴することができるのだと思う。